大正15年生まれの祖母の青春時代

母方の祖母は大正15年(昭和元年)に生まれ。
今は足腰が弱くなり、施設に入所しているが、つい2〜3年前までは、元気に一人暮らしで家庭菜園を楽しんでいた。
私はしばらく会えていないので、母から聞く話だが、いろいろ億劫になっていることはあるみたいだが、まだ認知機能もしっかりしているそう。

私は祖母が大好きで、夏休みなどの長期休みの時は、祖母の住む隣町までバスや汽車に乗って1人で行き、ゆっくり過ごさせてもらっていた。一緒に畑の野菜を食べたり、庭の花の手入れをしたりする時間はとても楽しかった。

祖母は、近隣の農家さんで「でめんとり(北海道弁で日雇い労働のことらしい)」をしていたから、祖母の作る野菜はいつも立派で、美味しかった。

祖母は、尋常小学校に通うのも大変だったそう。
読み書きそろばんを、独学で学び、老後は川柳を楽しんでいた。
祖母の家には、いつも裏が白いチラシのストックがあって、買い出しのメモ用紙にしたり、川柳のアイディア出しや、できた句を書き留めていた。

先日、部屋の片付けの時に祖母の手記が出てきて、久しぶりに読んだ。
手記は、文章を書くのが好きな祖母に、小冊子をまとめてあげたらいいねと3人の子どもたち(私の母とその姉弟)が作ってあげたものだった(米寿の記念かなにかだったと思うけど、思い出せないので、後日追記したいと思います)。

貧しい青春

(途中から引用)
 わたしにも20才の青春は同じようにあったはずなのに、孫達とは雲泥の差としか言いようもない戦争最中の青春であった。結婚どころか恋愛すらも、自由ではなかった暗い時代である。
 それでも私には柊生真珠にも等しい輝かしい思い出を、胸の中に焼き付けて生きているものがある。
 彼は隣家の青年でわたしの友人の兄であった。青年活動の指導者として何かと力になってくれ信頼に足る人物であった。

 何せ馬を頼りの農耕作時代で、肥料は自給の堆肥が主体でそれぞれ団員は、堆肥作りに専念して早朝の各家の堆肥測定などグラフの上るのを、みんなで自慢にしたものだ。
 電気もなしもちろん連絡など電話もなしすべて徒歩以外ないのだ。
 出征家族の作業奉仕も大切な労働源であったり、また予定を組んでは阿寒への登山、温根湯のつづじ山など自転車行軍でよく出かけた。
 雨降りには会館に集まり蓄音機をたよりに唄に踊りと練習にはげみ、秋祭りの一日、丸太組の舞台で発表したり、それが部落あげての戦時中のただ一つの楽しみだった。追えども追えども思い出はつきない。

 その彼もやはり母や弟妹達を残して出征して行った。送別会の帰り明日は出発の彼と、月の路を言葉もなく歩いた雪の軋みが、今でも鮮烈なのが何故か不思議である。

祖母の手記「おぼろ月」より一部引用

祖母の時代は電気もガスもなかった時代だったのは、なんとなく知っていたけれど、今改めて、自給自足をしていたんだなぁと思う。

自給自足に憧れている私ですが、便利な生活に慣れてしまっていて、さすがにここまではできないな・・・と尻込みしてしまう。

それこそ病院も簡単にかかれない時代だったと思うので、体調を崩した時は家でどのように過ごしていたんだろうか。自然のお手当も実はたくさん知っていそう。

祖母が元気なうちに、いろいろ聞いておきたい。

自然のお手当を知っていると、体調を崩した時に早めにお手当ができるので、ひどくなるのを防げます。どんなことをするのか気になる方は、無料メルマガ講座でお伝えしますので、どうぞご登録くださいね。

今すぐメルマガを読んでみたい!と思われた方はこちらから

元看護大学教員が教える薬に頼らない暮らし方無料メルマガ講座

なお、iCloudのメールアドレスはメールが届かない場合がございます。Gmail・yahoo・その他Webメール等をご利用くださいますようお願いいたします。